基準を上げることと現状への感謝 充足の芸術(アート) アンソニー・ロビンズ
アンソニー・ロビンズは、基準を上げろ(raise your standard)と言います。つまり、今の自分に満足せず、常に高い基準を設定して挑戦し続ける、ということです。
その一方で、充足のアートということも言っていて、こちらは、今持っているものにフォーカスを当てて、感謝する、というものです。
先の方は達成の科学というもので、目標を達成するためには、基準を上げ続けることが必要、ということでしょう。
しかし、そこには落とし穴があります。
基準を上げ、全米No1でなければ意味が無い、というように育てられたチアガールがいました。
彼女は全米選手権で優勝するために全てをかけて頑張っていました。
しかし、結果は5位。普通ならこれで十分立派な成績だし、次の大学や社会人になってから優勝を目指すこともできたはずです。
しかし、彼女は全米5位になったことで死を選びました。全米1位を取る以外に人生の目的がなかったからではないかと思います。
オリンピックで優勝できなかったから死を選ぶ、という人は最近は聞いたことがありませんが、昔はありました。
昔、円谷幸吉選手が、「もう走れません」という遺書を残して自殺した事件がありましたが、あれも結果を期待され過ぎて、期待に応える自信がなくて自殺した、ということなのでしょう。
また、極真空手の大山倍達総裁(故人)が、世界大会で日本選手が優勝できなければ腹を切る、と言って、選手達が必死で戦ったことがありました。絶対に勝つ、もし負ければ腹を切る、という背水の陣の覚悟は見事ではありますが、それが露骨なホームタウンデシジョンにつながったり、ウイリー・ウイリアムス選手の故意の反則負けにつながったのも事実です。
そういう意味で、スポーツの大会で負けたら死、という考えはどうかと思います。
とはいえ、では、負けた場合にどう考えればいいのでしょう?
今回は優勝できなかった、次に頑張ろう、というのが一つの考え方でしょう。今回の反省を活かして、次につなげよう。あるいは、自分は全米チア・リーダー選手権では優勝できなかったけど、自分がコーチになって優勝できるチア・リーダーを育てる教師になろう、ということも考えられたはずです。
自分が優勝できなかった、期待に応えられなかった、自分は価値のない人間だ、と思うと落ちこみ、自殺する方向に行ってしまうかも知れません。
その際、充足のアートを使うと、優勝はできなかったけど、5位に入賞できた。これも多くの人が支えてくれたおかげだ。みんなに感謝して、恩返しよう、これからももっと頑張ろう、という考えにもなれたはずです。5位という結果には満足はできないけれど、その過程で多くのものを得たはずです。それらに感謝することで、さらなる高みを目指すこともできたでしょう。
円谷幸吉選手も、期待を重圧に感じることなく、快い緊張感ととらえ、自分のできる最高のことをやろう、と考えるだけでよかったのではないでしょうか?
目標達成だけにフォーカスし、目標が達成できなければ自分は価値のない人間だ、と思うのではなく、例え目標が達成できなかったとしても、そこまで来るには多くの人の助けがあったはずです。結果には満足できなくても、支えてくれた家族、先生、コーチに感謝し、ねぎらいの言葉をかける位の余裕が欲しいものです。
結果が全て、という考えもありますが、勝負は時の運。どんなに努力しても、相手の努力、気合いが上回る場合はあり得ます。負けたとき、自分をダメな人間だ、という考えにフォーカスするのは、負けたけど、自分はこんなに多くのものを持っている。それに感謝し、また次のチャンスに向けて頑張ろう、と思うか。基準は下げる必要はないと思います。
常に優勝を目指すことは、選手であれば当然でしょう。ただ、一時の敗因を分析し、それを克服すればいいだけです。
ただ、私が疑問に思うのは、5位という結果に感謝すべきかどうか?という点です。5位に不満があるのに、果たして感謝できるのでしょうか?
しかし、できなくもないと思います。5位でも世間一般の基準から見れば立派な成績です。誇りを持っていいはずです。
ただ、本当に1位以外はない、という背水の陣であれば、5位という結果はなかったような気もします。完全に背水の陣になってなかったことも、また、家族との関係も自殺の原因になったのではないか、という気がします。勝負の世界で優勝を目指すのは当然ですが、その過程でも、常に感謝し、人を幸せにすることにフォーカスしたいものです。